イカの哲学(中沢新一・波多野一郎) を読む
懇意にしていただいている IN画伯から
推薦いただいて読み始めたのだが
久々に新たな視野が展開した本だった。
イカとは烏賊なのだが
まず、「イカの哲学」の作者 波多野一郎の生涯について
波多野は、グンゼの御曹子として生を受け
カミカゼ特攻の生き残りで
ロシアに抑留され
さらに戦後まもないアメリカに哲学を学びに渡り
「イカの哲学」を書き
44歳で脳腫瘍でなくなるという
数奇な人生を歩んだ人だ。
彼が渡米中
モントレーでのイカ漁のアルバイト中に
イカと人間との関係から
人間と森羅万象との関係を気づくに至り
「平和」の本質的な意味を見出す。
この時のひらめきを1965年に
小部数、私家版として出版したのが「イカの哲学」だ。
これに、まだ学生だった中沢新一が注目していた。
本書では、波多野の原文が収録され
その後
中沢のわかりやすい語り口で
「イカの哲学」の持つ意味が
明らかにされていく。
昨年のberet-expedition2007 in 信州では、
縄文の息吹に触れることができたが
あのときの思考が色々とよみがえった。
縄文時代は狩猟採取の時代であり
本書で中沢が言う
動物と人間が連続する時代だったのだ。
そのころは、自然界からの大量略奪はなく
必要なものを必要なだけ得るという行為をしていた。
星糞峠で考えた
黒曜石を採取する専業者が居たのではないか
という考えはこれに全く反する。
星糞峠の黒曜石が3万年もの長きに渡り
採取されたというのは
必要なものを必要なときに得るという行為の
証明ではないか。
縄文人は森羅万象と連続性を持ち
3万年の長きにわたり
ある意味で幸福な生活を送っていたに違いない。
中沢の解説によると
当然、戦争はあったのだが
それは狩猟と同じ意味を持ち
生命の本質にセットされた
エロティシズム態にある事象だという。
エロティシズムとはなにか。
生命の本質は
生物が個体が独立し維持する側面
すなわち
個体がまわりの環境から非連続である
ことに目が行きがちであるが
逆に
生命は、まわりの環境から非連続であることを壊し
連続性の中に溶け込もうとする行為もある。
この非連続になろうとする概念がエロティシズムである。
生命の過程で言うと
細胞分裂の最終期がそれに当たる。
本来の戦争は(狩猟も)
このエロティシズム態にあったのだが
国家の出現により
その行為を人間から国家の内部に取り入れた。
さらに近代に至っては
個の死すら意味を持たない戦争になってしまった。
中沢は
これを「超戦争」という言葉で表現し
それに対する「超平和」を対峙させる。
このことを
波多野の「イカの哲学」から引用すると
人間以外の生物の生命に対しても
敬意を持つことに関心のない
在来の人間尊重主義は
理論的に弱く、
そして、動物達と人間を区別しようとする境界線が
とかく曖昧になりがちであります。
それ故
在来の単なるヒューマニズムは、我々の社会で、
しばしば叫ばれるものであるけれども
それ自体には、戦争を喰い止めるだけの力はない。
と、大助は結論したのであります。
いや、本当に思想の世界が広がった本だった。
余談になるが
戦争のエロティシズムについては
村上龍の「愛と幻想のファシズム」の読後を
思い起こせた。
いい本を紹介していただいた
IN画伯に感謝!
これは、IN画伯お手製のイカの塩辛だ。
IN撮影
愛と幻想のファシズム〈上〉
推薦いただいて読み始めたのだが
久々に新たな視野が展開した本だった。
イカとは烏賊なのだが
まず、「イカの哲学」の作者 波多野一郎の生涯について
波多野は、グンゼの御曹子として生を受け
カミカゼ特攻の生き残りで
ロシアに抑留され
さらに戦後まもないアメリカに哲学を学びに渡り
「イカの哲学」を書き
44歳で脳腫瘍でなくなるという
数奇な人生を歩んだ人だ。
彼が渡米中
モントレーでのイカ漁のアルバイト中に
イカと人間との関係から
人間と森羅万象との関係を気づくに至り
「平和」の本質的な意味を見出す。
この時のひらめきを1965年に
小部数、私家版として出版したのが「イカの哲学」だ。
これに、まだ学生だった中沢新一が注目していた。
本書では、波多野の原文が収録され
その後
中沢のわかりやすい語り口で
「イカの哲学」の持つ意味が
明らかにされていく。
昨年のberet-expedition2007 in 信州では、
縄文の息吹に触れることができたが
あのときの思考が色々とよみがえった。
縄文時代は狩猟採取の時代であり
本書で中沢が言う
動物と人間が連続する時代だったのだ。
そのころは、自然界からの大量略奪はなく
必要なものを必要なだけ得るという行為をしていた。
星糞峠で考えた
黒曜石を採取する専業者が居たのではないか
という考えはこれに全く反する。
星糞峠の黒曜石が3万年もの長きに渡り
採取されたというのは
必要なものを必要なときに得るという行為の
証明ではないか。
縄文人は森羅万象と連続性を持ち
3万年の長きにわたり
ある意味で幸福な生活を送っていたに違いない。
中沢の解説によると
当然、戦争はあったのだが
それは狩猟と同じ意味を持ち
生命の本質にセットされた
エロティシズム態にある事象だという。
エロティシズムとはなにか。
生命の本質は
生物が個体が独立し維持する側面
すなわち
個体がまわりの環境から非連続である
ことに目が行きがちであるが
逆に
生命は、まわりの環境から非連続であることを壊し
連続性の中に溶け込もうとする行為もある。
この非連続になろうとする概念がエロティシズムである。
生命の過程で言うと
細胞分裂の最終期がそれに当たる。
本来の戦争は(狩猟も)
このエロティシズム態にあったのだが
国家の出現により
その行為を人間から国家の内部に取り入れた。
さらに近代に至っては
個の死すら意味を持たない戦争になってしまった。
中沢は
これを「超戦争」という言葉で表現し
それに対する「超平和」を対峙させる。
このことを
波多野の「イカの哲学」から引用すると
人間以外の生物の生命に対しても
敬意を持つことに関心のない
在来の人間尊重主義は
理論的に弱く、
そして、動物達と人間を区別しようとする境界線が
とかく曖昧になりがちであります。
それ故
在来の単なるヒューマニズムは、我々の社会で、
しばしば叫ばれるものであるけれども
それ自体には、戦争を喰い止めるだけの力はない。
と、大助は結論したのであります。
いや、本当に思想の世界が広がった本だった。
余談になるが
戦争のエロティシズムについては
村上龍の「愛と幻想のファシズム」の読後を
思い起こせた。
いい本を紹介していただいた
IN画伯に感謝!
これは、IN画伯お手製のイカの塩辛だ。
IN撮影
この記事へのコメント
人間と動物が連続的だった時代、そういうふうに縄文時代を定義すれば、ひょっとしたら星糞峠での採掘の時代はすでに縄文時代ではなかったのかもしれない。縄文時代にはすでに農耕の行われていた形跡があったといわれているから。昨日、八木茂樹「歓待」の精神史(講談社)をぱらぱらめくっていた。神話的世界の構築が人間と生態系を分離させたが、その時、人間と対峙する系からの「来訪者」を(無法たる)「歓待」するというシステムを取り入れてなんとかバランスを保とうとした。しかし現代はそれすら忘れられつつある。ではどうすればいいのか?イカの哲学にはなにかの示唆があるのでしょうか。フーコー「言葉と物」は16世紀以前の言葉と物がずっと密接に接続していた、それ以降、言葉は中性化し、近代的な知識が形成されていった。言葉ではなく、音楽やダンス、そういう言語化不可能な知の世界が救いなのでしょうか?言葉自体もちょっと前までは、朗読や朗唱という手段で使われたツールにすぎなかったのに。
すでに農耕が行われていたとしても、今のような自然界からの「大量奪略」は行われていなかったとして、人間と動物(自然界)の連続性はあったのではないかと思うのです。本書ではこの「大量奪略」がひとつのキーワードになっています。
また、ご一読いただいて、ご感想をお願いします。
ヒトは地球の生命体の一部だと実感することが大切だということでしょうか。
「ぼくらみんな生きている♪」なんていうみんなの歌がありましたよね。ふと、思い出してしまいました。(~o~)
子供のころ、結構カエルなんかの生き物を捕まえて、残酷なことをしていたけれど、そのカエルには災難だけれど、あのような体験も結構大切なのではないでしょうか。
読了されたようで、感想をまとめてアーカイブしておきたいのでこちらでお返事しました。
「イカの哲学」のいいところは、下手をすれば難しい理論を振り回して説明してしまう事柄を簡単に伝えているところだと思います。
それを中沢がさらに丁寧に解説したというのがうれしいですね。
では「どうすればいいか」という問題は「ひとそれぞれの宇宙観」ということになってしまうのでしょうか。
おっしゃるように「宇宙的一体感」は宗教哲学の中沢らしいテーマですね。
beret-expedition 2008 in熊野 の設定、いい繋がりになりましたね。
物語化といえば過去において、たとえばアイヌのユーカラとか、般若心経とかが具体化しているのではないでしょうか。
「ボローニャ紀行」また読んでみます。