伝 松風・村雨の史跡を訪ねる
寒いが歩いて多井畑厄神に初詣する。
ここ多井畑に残る松風、村雨の史跡を訪ねてみた。
松風、村雨は能「松風」に登場する伝説上の人物で、
多井畑の村長の娘姉妹「もしほ」「こふじ」のことで、
在原行平が寵愛したことになっている。
これは、松風、村雨が姿を映したという「鏡井」
住宅地の中に追いやられて、濁ってしまっている。
これは、松風、村雨のものと伝えられる五輪塔
たぶん、右手の大きい2つが松風、村雨のものだろうけれど、
あまりお祀りする人もないようだ。
ここの鏡井にある碑文によると
886年(仁和3年)に須磨に蟄居したとある。
しかし、調べてみると、
在原行平が須磨に滞在したという形跡は定かではない。
886年は、行平 69歳の時である。
行平は887年に官位を辞しているから、
何か仕事上のトラブルがあったのかもしれない。
連れに言わせると
「行平のお世話をした、この土地の女の人かもしれないね」
確かに、そうかもしれない。
能 謡「松風」
旅の僧が須磨で海人に一夜の宿を求めたところ
海人が松風、村雨と菅原行平の悲恋を語りはじめる。
海人は実は、松風、村雨の霊であった。
ぜひ一度 見てみたい能である。
855年、行平が因幡の国守になった時に詠んだといわれる
「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来ん」
いずれにせよ
多井畑は、古い山陽道が通過する場所で
畿内と播磨の国境の村であった。
ここに「もしほ」「こふじ」という姉妹がいて
その話が、旅人ともに京に伝わり
在原行平は、京に住みながら、この国境の村を思い
歌を詠み、
そののち、失脚した行平とこの歌を結びつけ
後世の人々が、更なる物語を語ったのではなかろうか。
村雨、松風の墓所には、冬というのに、おびただしい空蝉が残っていた。
ここ多井畑に残る松風、村雨の史跡を訪ねてみた。
松風、村雨は能「松風」に登場する伝説上の人物で、
多井畑の村長の娘姉妹「もしほ」「こふじ」のことで、
在原行平が寵愛したことになっている。
これは、松風、村雨が姿を映したという「鏡井」
住宅地の中に追いやられて、濁ってしまっている。
これは、松風、村雨のものと伝えられる五輪塔
たぶん、右手の大きい2つが松風、村雨のものだろうけれど、
あまりお祀りする人もないようだ。
ここの鏡井にある碑文によると
886年(仁和3年)に須磨に蟄居したとある。
しかし、調べてみると、
在原行平が須磨に滞在したという形跡は定かではない。
886年は、行平 69歳の時である。
行平は887年に官位を辞しているから、
何か仕事上のトラブルがあったのかもしれない。
連れに言わせると
「行平のお世話をした、この土地の女の人かもしれないね」
確かに、そうかもしれない。
能 謡「松風」
旅の僧が須磨で海人に一夜の宿を求めたところ
海人が松風、村雨と菅原行平の悲恋を語りはじめる。
海人は実は、松風、村雨の霊であった。
ぜひ一度 見てみたい能である。
855年、行平が因幡の国守になった時に詠んだといわれる
「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来ん」
いずれにせよ
多井畑は、古い山陽道が通過する場所で
畿内と播磨の国境の村であった。
ここに「もしほ」「こふじ」という姉妹がいて
その話が、旅人ともに京に伝わり
在原行平は、京に住みながら、この国境の村を思い
歌を詠み、
そののち、失脚した行平とこの歌を結びつけ
後世の人々が、更なる物語を語ったのではなかろうか。
村雨、松風の墓所には、冬というのに、おびただしい空蝉が残っていた。
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