菟原処女(うないおとめ)伝説地を訪ねる
菟原処女(うないおとめ)伝説
摂津国蘆屋 菟原(うはら)郡にいた美少女、菟原処女(うないおとめ)は、菟原壮士(うないおとこ)と、血沼壮士(ちぬおとこ)に求婚されて悩み、生田川に身をなげ、ふたりの男も後を追うというもの。
その埋葬地が、処女塚古墳(おとめつか)と西求塚古墳(もとめづか)・東求塚古墳であるという。
「万葉集」で高橋虫麻呂や大伴家持らにうたわれ、「大和物語」、謡曲「求塚」や森鴎外「生田川」の題材になった。
語り継ぐからにも幾許恋しきを直目に見けむ古壮士 (万葉集 高橋虫麻呂)
かたりつぐからにもここだこほしきをただめにみけむいにしえおとこ
(現代訳)こうして語り継ぐだけでもどんな女性だったろうと逢いたくなるのに。直接目にした古への男たちはどれほど恋いこがれたことだろう。
ということで行ってみる。
西求塚古墳
まず、行ったのは「西求塚古墳」
阪神高速道路の北、国道43号線から少し入ったところにある。
地域の公園となっていて、きれいに整備されている。
解説文によると、古墳時代4C初頭の築造。菟原壮士(うないおとこ)の墓と言われている。
全長95mの珍しい前方後方墳であり、三角縁神獣鏡が12面も発掘されている。
三角縁神獣鏡は卑弥呼が大陸からもらった100面の銅鏡ではないかと言われている。
感心していると、どこからともなく老婆が現れ「興味ありますかの?」と問う。
美女でなく老婆というのが残念だが、しばらく話す。
老婆は92歳で、この辺りを掃除するのを日課にしているという。
耳もよく聞こえるようですこぶる元気そうである。
しばらく世間話を聞かされて、きりがないので懇ろに別れを告げ、処女塚古墳に向かう。
処女塚古墳
西求塚古墳から国道43号線を東へ2kmほど行ったところにある。
街中にありながら、古墳らしい風情を残している。
解説板によると全長70mの前方後方墳である。山陰地方の特徴を持つ壺型土器が発掘され、築造は3C後半でないかと言われている。
頂部はきれいに掃き清められて、地域で大切にされているのがわかる。
東側にはかなり古い石碑が2つ並んでいる。
風化して文字も消えかかって、脇にある解説板がなければ見過ごしてしまうところだ。
左の碑は、
古の小竹田壮士の妻問ひし菟原処女の奥つ城ぞこれ
(いにしえのしのだおとこのつまとひしうねひをとめのおくつきぞこれ)
という、万葉の歌人 田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌碑で、後世の人(下加茂季鷹と名あり)が建てたもの。
右の碑は
湊川の戦いで新田義貞をこの乙女塚で助けたという小山田太郎高家を偲んで、江戸時代に建てたもの。
どちらの碑からも、古くから風流人が乙女塚の古事を愛でたのが偲ばれる。
東求女塚古墳
乙女塚からさらに東へ2kmほどのところに、東求女塚古墳がある。
血沼壮士(ちぬおとこ)(信太壮士(しのだおとこ) 小竹田男(ささだおとこ)小竹田丁子(しのだおとこ) 陳奴壮士(ちぬおとこ)とも記述)の墓と言われている。
残念ながら土盛りは過去にかなり取り除かれてしまって、地域の公園の中央にわずかに土盛りが残り頂上に石碑があるのみである。
築造は4C後半で、全長80mの前方後円墳であったと調査されている。
三角縁神獣鏡や碧玉の車輪石などが出土している。
これで、菟原処女(うないおとめ)伝説地の旅を終える。
男たちの美少女をめぐる古代物語に想像を巡らそうとするが、すでに市街地の阪神高速で海側を遮られた景観からはそれも砕けてしまう。
気を取り直して、Googlmapで、これら古墳を含む古代阪神間の遺跡をプロットして、西から眺めてみた。
生田神社、敏馬(みぬめ)神社、西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳、本住吉神社、西宮戎と並んでいる。
古代海岸線は今の43号線あたりにあり、海上交通からこれらのランドマークが見えていたのに違いない。
さらに、山麓には大量銅鐸の出土した桜が丘、磐座や古代灯台の保久良神社が見える。
大陸から瀬戸内海ルートでナニワ、ヤマトへ向かう人々が、これらを見ながら舟を走らせたのだと思いを巡らすのだ。

神戸・阪神間の古代史 (のじぎく文庫) - 坂江 渉

畿内 古墳探訪ガイド 改訂版 大阪・京都・奈良・兵庫 歴史探訪ルートガイド - 松本 弥
摂津国蘆屋 菟原(うはら)郡にいた美少女、菟原処女(うないおとめ)は、菟原壮士(うないおとこ)と、血沼壮士(ちぬおとこ)に求婚されて悩み、生田川に身をなげ、ふたりの男も後を追うというもの。
その埋葬地が、処女塚古墳(おとめつか)と西求塚古墳(もとめづか)・東求塚古墳であるという。
「万葉集」で高橋虫麻呂や大伴家持らにうたわれ、「大和物語」、謡曲「求塚」や森鴎外「生田川」の題材になった。
語り継ぐからにも幾許恋しきを直目に見けむ古壮士 (万葉集 高橋虫麻呂)
かたりつぐからにもここだこほしきをただめにみけむいにしえおとこ
(現代訳)こうして語り継ぐだけでもどんな女性だったろうと逢いたくなるのに。直接目にした古への男たちはどれほど恋いこがれたことだろう。
ということで行ってみる。
西求塚古墳
まず、行ったのは「西求塚古墳」
阪神高速道路の北、国道43号線から少し入ったところにある。
地域の公園となっていて、きれいに整備されている。
解説文によると、古墳時代4C初頭の築造。菟原壮士(うないおとこ)の墓と言われている。
全長95mの珍しい前方後方墳であり、三角縁神獣鏡が12面も発掘されている。
三角縁神獣鏡は卑弥呼が大陸からもらった100面の銅鏡ではないかと言われている。
感心していると、どこからともなく老婆が現れ「興味ありますかの?」と問う。
美女でなく老婆というのが残念だが、しばらく話す。
老婆は92歳で、この辺りを掃除するのを日課にしているという。
耳もよく聞こえるようですこぶる元気そうである。
しばらく世間話を聞かされて、きりがないので懇ろに別れを告げ、処女塚古墳に向かう。
処女塚古墳
西求塚古墳から国道43号線を東へ2kmほど行ったところにある。
街中にありながら、古墳らしい風情を残している。
解説板によると全長70mの前方後方墳である。山陰地方の特徴を持つ壺型土器が発掘され、築造は3C後半でないかと言われている。
頂部はきれいに掃き清められて、地域で大切にされているのがわかる。
東側にはかなり古い石碑が2つ並んでいる。
風化して文字も消えかかって、脇にある解説板がなければ見過ごしてしまうところだ。
左の碑は、
古の小竹田壮士の妻問ひし菟原処女の奥つ城ぞこれ
(いにしえのしのだおとこのつまとひしうねひをとめのおくつきぞこれ)
という、万葉の歌人 田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌碑で、後世の人(下加茂季鷹と名あり)が建てたもの。
右の碑は
湊川の戦いで新田義貞をこの乙女塚で助けたという小山田太郎高家を偲んで、江戸時代に建てたもの。
どちらの碑からも、古くから風流人が乙女塚の古事を愛でたのが偲ばれる。
東求女塚古墳
乙女塚からさらに東へ2kmほどのところに、東求女塚古墳がある。
血沼壮士(ちぬおとこ)(信太壮士(しのだおとこ) 小竹田男(ささだおとこ)小竹田丁子(しのだおとこ) 陳奴壮士(ちぬおとこ)とも記述)の墓と言われている。
残念ながら土盛りは過去にかなり取り除かれてしまって、地域の公園の中央にわずかに土盛りが残り頂上に石碑があるのみである。
築造は4C後半で、全長80mの前方後円墳であったと調査されている。
三角縁神獣鏡や碧玉の車輪石などが出土している。
これで、菟原処女(うないおとめ)伝説地の旅を終える。
男たちの美少女をめぐる古代物語に想像を巡らそうとするが、すでに市街地の阪神高速で海側を遮られた景観からはそれも砕けてしまう。
気を取り直して、Googlmapで、これら古墳を含む古代阪神間の遺跡をプロットして、西から眺めてみた。
生田神社、敏馬(みぬめ)神社、西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳、本住吉神社、西宮戎と並んでいる。
古代海岸線は今の43号線あたりにあり、海上交通からこれらのランドマークが見えていたのに違いない。
さらに、山麓には大量銅鐸の出土した桜が丘、磐座や古代灯台の保久良神社が見える。
大陸から瀬戸内海ルートでナニワ、ヤマトへ向かう人々が、これらを見ながら舟を走らせたのだと思いを巡らすのだ。

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