鯨資料館「勇魚文庫」を見学して、鯨を食べる (2022 相模・安房 黒潮紀行)
今回の旅の目的の一つに、「鯨を食べる」というのがある。
現在、日本で捕鯨基地があるのは3か所しかなく、その一つが房州和田浦である。
館山から和田浦を目指す。
途中の白渚海岸、5kmほどの長い砂浜である。
台風の影響で太平洋から大波が打ち寄せて、その波しぶきで遠くが霞んでいる。
サーフスポットらしいが、さすがに勇敢なサーファーもいない。

振り返ると目指す和田浦の集落。

浜沿いの国道バイパスから離れて、旧国道の集落内の細い道をたどるとJR和田浦駅がある。
建て替えられておしゃれな感じの駅舎だ。背の高いフェニックスが印象的。

時刻表を見ると1時間に1本である。

駅の反対側に道の駅があり、そこに鯨資料館があるというので行ってみる。目の前にシロナガスクジラの巨大な骨格標本が目に飛び込んでくる。

説明板によると、ノルウェーで捕獲された体長26mのシロナガスクジラで、下関水族館にある実物のレプリカらしい。

レプリカであれ何であれ、これは見ものである。後ろのビル(南房総市上田地域センター)と比較すると鯨の巨大さがよくわかる。
落ち着いていろいろ観察すると、尾びれの位置には骨格がないのがわかる。

おや、何か小さいぶら下がっているものがある。野外展示で一部壊れたものかと思ったが、どうもそうではないようだ。

これは「骨盤骨痕跡」というものらしい。
人魚姫のように足が尾びれになったのかと思ったが、そうでなく鯨は足を無くすことで水中生活に適応していったのだ。いやー、これはこの骨格標本を見て初めて知った。
体に比べて口がとても大きいのがわかる。体を維持するのにオキアミなんかを大量に食べないといけないからだ。

正面から見ると、新幹線のフォルムに似ている。

鯨に関するコレクションを展示している「鯨資料館」は、「勇魚文庫」と名づけられているように、個人のコレクションを好意で展示しているもので、南房総市地域センターの内部にある。
入館無料、写真撮影OKというのがいい。

鯨に関するあらゆるものがコンパクトに展示されていて見ていて楽しい。
鯨のおもちゃは日本ばかりでなく、世界各地のものが展示され、鯨は大きい動物として万人が興味を持っていることがわかる。


鯨は捨てるところがないといわれるように、肉だけでなくあらゆる部位が日用品に使われていた。

ひげで作った、薬さじと練り棒。プラスチックがないころ調剤用に適していたのだろう。

いろいろな鯨のひげも展示されている。

ひげは鼈甲のような美しい工芸品にも加工されている。

ゲテモノだけれど、これは鯨のペニスだ。普段は体内に収納されていて見えないようだ。

このペニスを加工して財布にしている。さすがに男物だ。

捕鯨関係の展示も充実している。
昔の近海捕鯨の写真ハガキも多く展示されて興味深い。

房総の鯨漁は江戸時代に勝山の醍醐家によって始まり、海上要員500人、解体場70人もの組織規模にもなっていた。
漁法はモリを打ち込む「突き捕り」が特徴である。
明治になり、捕鯨砲による洋式捕鯨が導入された。
昭和23年に和田浦に外房捕鯨株式会社が設立され今に至っている。

解体するときの包丁類。

江戸時代の本に載っている鯨の絵が面白い。
「日本永代蔵」に鯨が出てくるとは、調べると太地の漁師が鯨漁で一儲けした話。たぶん描き手の想像が半分ほど入っているので鯨らしくない。

さすが司馬江漢の鯨は科学的な描写だ。調べると長崎の生月島で捕鯨を見て画題にしたようだ。

南氷洋捕鯨の展示も面白いものがあり、昭和30年代の小学生向け雑誌の付録で「くじらとりゲーム」というのがあった。
確かに私の小学校の国語教科書には南氷洋捕鯨の話が載ってきた記憶がよみがえる。


あの頃の給食には、鯨カツや鯨の大和煮といった献立があったことを思い出す。
それほど、鯨は我々日本人の食生活に結びついていたのだ。
南氷洋捕鯨のモリ

興味ある展示がたくさんあって、小さな資料館だったが2時間ほど滞在してしまった。
さて、いよいよ和田浦の民宿で鯨料理である。
鯨の肉はいろいろな加工、料理法があって、刺身、焼肉、カツ、南総ではタレと呼ばれる干し肉など小皿でそれぞれ楽しめる。

やはり鯨カツは懐かしい。串カツといえば鯨カツだったころを思い出した。

翌朝、鯨の解体場があるので覗いてみたが、残念ながら3日ほど海が荒れて出漁がなく休んでいた。

鯨資料館の展示に「鯨塚」というものがあり、それによると全国各地の沿岸には100基以上の鯨を弔う塚があるという。
今は捕鯨に関して世界的に難しい時代になっているが、やはり捕鯨、鯨料理は日本の文化として守る必要がある思ったのだった。
食糧事情がよくなかった時代は、沿岸で鯨が1頭でも取れると、貴重な食糧源として近隣の浦々の人々の腹を満たしたのだ。
古来から日本人は捕鯨により鯨から命を頂き、それに感謝して暮らしてきたという文化があると改めて思った旅だった。


現在、日本で捕鯨基地があるのは3か所しかなく、その一つが房州和田浦である。
館山から和田浦を目指す。
途中の白渚海岸、5kmほどの長い砂浜である。
台風の影響で太平洋から大波が打ち寄せて、その波しぶきで遠くが霞んでいる。
サーフスポットらしいが、さすがに勇敢なサーファーもいない。

振り返ると目指す和田浦の集落。

浜沿いの国道バイパスから離れて、旧国道の集落内の細い道をたどるとJR和田浦駅がある。
建て替えられておしゃれな感じの駅舎だ。背の高いフェニックスが印象的。

時刻表を見ると1時間に1本である。

駅の反対側に道の駅があり、そこに鯨資料館があるというので行ってみる。目の前にシロナガスクジラの巨大な骨格標本が目に飛び込んでくる。

説明板によると、ノルウェーで捕獲された体長26mのシロナガスクジラで、下関水族館にある実物のレプリカらしい。

レプリカであれ何であれ、これは見ものである。後ろのビル(南房総市上田地域センター)と比較すると鯨の巨大さがよくわかる。
落ち着いていろいろ観察すると、尾びれの位置には骨格がないのがわかる。

おや、何か小さいぶら下がっているものがある。野外展示で一部壊れたものかと思ったが、どうもそうではないようだ。

これは「骨盤骨痕跡」というものらしい。
人魚姫のように足が尾びれになったのかと思ったが、そうでなく鯨は足を無くすことで水中生活に適応していったのだ。いやー、これはこの骨格標本を見て初めて知った。
体に比べて口がとても大きいのがわかる。体を維持するのにオキアミなんかを大量に食べないといけないからだ。

正面から見ると、新幹線のフォルムに似ている。

鯨に関するコレクションを展示している「鯨資料館」は、「勇魚文庫」と名づけられているように、個人のコレクションを好意で展示しているもので、南房総市地域センターの内部にある。
入館無料、写真撮影OKというのがいい。
鯨に関するあらゆるものがコンパクトに展示されていて見ていて楽しい。
鯨のおもちゃは日本ばかりでなく、世界各地のものが展示され、鯨は大きい動物として万人が興味を持っていることがわかる。
鯨は捨てるところがないといわれるように、肉だけでなくあらゆる部位が日用品に使われていた。
ひげで作った、薬さじと練り棒。プラスチックがないころ調剤用に適していたのだろう。
いろいろな鯨のひげも展示されている。
ひげは鼈甲のような美しい工芸品にも加工されている。
ゲテモノだけれど、これは鯨のペニスだ。普段は体内に収納されていて見えないようだ。

このペニスを加工して財布にしている。さすがに男物だ。
捕鯨関係の展示も充実している。
昔の近海捕鯨の写真ハガキも多く展示されて興味深い。
房総の鯨漁は江戸時代に勝山の醍醐家によって始まり、海上要員500人、解体場70人もの組織規模にもなっていた。
漁法はモリを打ち込む「突き捕り」が特徴である。
明治になり、捕鯨砲による洋式捕鯨が導入された。
昭和23年に和田浦に外房捕鯨株式会社が設立され今に至っている。
解体するときの包丁類。
江戸時代の本に載っている鯨の絵が面白い。
「日本永代蔵」に鯨が出てくるとは、調べると太地の漁師が鯨漁で一儲けした話。たぶん描き手の想像が半分ほど入っているので鯨らしくない。
さすが司馬江漢の鯨は科学的な描写だ。調べると長崎の生月島で捕鯨を見て画題にしたようだ。
南氷洋捕鯨の展示も面白いものがあり、昭和30年代の小学生向け雑誌の付録で「くじらとりゲーム」というのがあった。
確かに私の小学校の国語教科書には南氷洋捕鯨の話が載ってきた記憶がよみがえる。
あの頃の給食には、鯨カツや鯨の大和煮といった献立があったことを思い出す。
それほど、鯨は我々日本人の食生活に結びついていたのだ。
南氷洋捕鯨のモリ

興味ある展示がたくさんあって、小さな資料館だったが2時間ほど滞在してしまった。
さて、いよいよ和田浦の民宿で鯨料理である。
鯨の肉はいろいろな加工、料理法があって、刺身、焼肉、カツ、南総ではタレと呼ばれる干し肉など小皿でそれぞれ楽しめる。

やはり鯨カツは懐かしい。串カツといえば鯨カツだったころを思い出した。

翌朝、鯨の解体場があるので覗いてみたが、残念ながら3日ほど海が荒れて出漁がなく休んでいた。

鯨資料館の展示に「鯨塚」というものがあり、それによると全国各地の沿岸には100基以上の鯨を弔う塚があるという。
今は捕鯨に関して世界的に難しい時代になっているが、やはり捕鯨、鯨料理は日本の文化として守る必要がある思ったのだった。
食糧事情がよくなかった時代は、沿岸で鯨が1頭でも取れると、貴重な食糧源として近隣の浦々の人々の腹を満たしたのだ。
古来から日本人は捕鯨により鯨から命を頂き、それに感謝して暮らしてきたという文化があると改めて思った旅だった。

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