諏訪大社上社本宮 境内配置の謎を解く(2022 諏訪縄文紀行 5)
上社前宮を後にして、上社本宮に向かう。
2007年に参拝した時、
参拝の動線や境内の配置に違和感を感じていた。
今回の訪問で、その謎を解いてみた。

2007年の参拝では駐車場から、大鳥居をくぐって、この写真の正面の階段を上がって、すぐ右に折れ、また引き返すようにUターンして拝殿の前に進む、このパターンだった。これだと参道の途中で横から入るような違和感があった。正面の階段と書いたが、動線からすれば、実は「側面」の階段である。
今回は、上宮前宮から出発したので、導かれるように道なりに来ると、東大鳥居をくぐり、かつての門前町のような参道を進むことになる。
境内の境には小さな流れがあり、その石橋を渡り、青銅の鳥居をくぐると「入口御門」に到達する。

この「入口御門」に続くのは「布橋」という屋根付き廊下である。
布橋の由来は、神事の際に布が敷かれ、大祝(おおほうり)のみが歩くことを許されたからだといわれている。大祝は、諏訪大社の権化、イキガミである。

では、一般人はどうしたのか。たぶん入口御門をくぐらずに、布橋の右下の境内を通って、先ほどの側面の階段に行ったのだろう。
この動線上には、このように奉納相撲の土俵や奉納神楽殿が途中にあったりする。

これは、布橋から見た「神楽殿」と「天流水社」である。
「天流水舎」は雨乞いに関係する重要な場所なのだが、布橋から見ると裏手になってしまう。
やはり、「布橋」は大祝のみ通路であり、一般人の参道はここではない。

これが正面から見た「天流水舎」。ここの右の階段を上ると「布橋」であり、布橋を横切ると大祝だけがくぐれる「四脚門」がある。

やはり、一般人は布橋でなく境内を通り、天流水舎に参り、正面というか側面階段へ進んだのだろう。
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ここで、「大祝」の立場で参拝の動線をたどってみよう。
大祝は諏訪大社のイキガミである。
普段は「前宮」の「神原」を屋敷としている。
上社本宮で神事を行うときは、「前宮」を出発し、
途中の「神長官守矢屋敷」で神長官守矢を伴い、
東参道から「入口御門」をくぐり、白布が敷かれた「布橋」を進み、
「天流水舎」と「四脚門」の交差点に至る。
ここで大祝は「四脚門」をくぐり、その先の「硯石」に向かうことになる。

「硯石」はもっとも重要な神の憑代であり、今でも一般人は近寄れない。(恐れ多くも望遠で撮影してしまった。)

この石の上には窪みがあり常に水をたたえていることから「硯石」という。
ここに登れるのは大祝だけである。

「硯石」はまさしく磐座であり、神の憑代であり、水をたたえていることからここに宿るのは「水の精霊」だといえる。
「硯石」で水の精霊と一体化した大祝は「四脚門」を再びくぐり、人間界へと戻ってくる。
ここで考えるのは「四脚門」の意味である。
すなわち動物を意味していることは明らかである。
「四脚門」をくぐるとは、人間界と神の世界を行き来するときのゲートであり、
ここで大祝は動物と一体となり、自然界の力を身に着け、神の力を得ることを意味している。
めでたく、水の精霊の力を得た大祝は、「天流水舎」に戻り、人間界に水の恵みをもたらすのである。
ここで、「先住民モリヤ」と「征服者イズモ」の物語を思い出すと、
「天流水舎」が必要なのは「稲作民イズモ」であり、
「狩猟民モリヤ」の自然崇拝の力を「四脚門」をくぐることで借り「硯石」に到達できたと考えよう。
大祝となったのは征服者イズモであり、大祝を導く神長官守矢はその字の通り先住民モリヤなのだ。
これがベレー帽流の上社本宮の謎解きである。
まさしく縄文の古層の露頭を発見してしまった。
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さて、一般人として拝殿に向かおう。
幣拝殿と片拝殿のみで本殿を持たない、諏訪造りという独持の様式だそうだ。

では、本殿がないのに、何を拝したのだろうか。
諏訪にイズモが侵入するまでは、先住民モリヤは「ミシャグチ神」を拝し、
自然のあらゆるところに神が存在したので、神殿に神がいるという概念がなかったのだ。
すなわち拝殿はあるのだが、実はその先には、モリヤの神々がいる「守屋山」があるのだ。
あるいは、諏訪のイキガミである大祝の屋敷「神原」のある「上社前宮」に向かっていることになる。
なんと、先住民モリヤはイズモに征服されたように見せかけて、
実は信仰的、政治的に実権を握るような神社の位置関係を巧妙に作ったのだと考えられるのだ。
2007年に参拝した時、
参拝の動線や境内の配置に違和感を感じていた。
今回の訪問で、その謎を解いてみた。
2007年の参拝では駐車場から、大鳥居をくぐって、この写真の正面の階段を上がって、すぐ右に折れ、また引き返すようにUターンして拝殿の前に進む、このパターンだった。これだと参道の途中で横から入るような違和感があった。正面の階段と書いたが、動線からすれば、実は「側面」の階段である。
今回は、上宮前宮から出発したので、導かれるように道なりに来ると、東大鳥居をくぐり、かつての門前町のような参道を進むことになる。
境内の境には小さな流れがあり、その石橋を渡り、青銅の鳥居をくぐると「入口御門」に到達する。
この「入口御門」に続くのは「布橋」という屋根付き廊下である。
布橋の由来は、神事の際に布が敷かれ、大祝(おおほうり)のみが歩くことを許されたからだといわれている。大祝は、諏訪大社の権化、イキガミである。
では、一般人はどうしたのか。たぶん入口御門をくぐらずに、布橋の右下の境内を通って、先ほどの側面の階段に行ったのだろう。
この動線上には、このように奉納相撲の土俵や奉納神楽殿が途中にあったりする。
これは、布橋から見た「神楽殿」と「天流水社」である。
「天流水舎」は雨乞いに関係する重要な場所なのだが、布橋から見ると裏手になってしまう。
やはり、「布橋」は大祝のみ通路であり、一般人の参道はここではない。
これが正面から見た「天流水舎」。ここの右の階段を上ると「布橋」であり、布橋を横切ると大祝だけがくぐれる「四脚門」がある。
やはり、一般人は布橋でなく境内を通り、天流水舎に参り、正面というか側面階段へ進んだのだろう。
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ここで、「大祝」の立場で参拝の動線をたどってみよう。
大祝は諏訪大社のイキガミである。
普段は「前宮」の「神原」を屋敷としている。
上社本宮で神事を行うときは、「前宮」を出発し、
途中の「神長官守矢屋敷」で神長官守矢を伴い、
東参道から「入口御門」をくぐり、白布が敷かれた「布橋」を進み、
「天流水舎」と「四脚門」の交差点に至る。
ここで大祝は「四脚門」をくぐり、その先の「硯石」に向かうことになる。
「硯石」はもっとも重要な神の憑代であり、今でも一般人は近寄れない。(恐れ多くも望遠で撮影してしまった。)
この石の上には窪みがあり常に水をたたえていることから「硯石」という。
ここに登れるのは大祝だけである。
「硯石」はまさしく磐座であり、神の憑代であり、水をたたえていることからここに宿るのは「水の精霊」だといえる。
「硯石」で水の精霊と一体化した大祝は「四脚門」を再びくぐり、人間界へと戻ってくる。
ここで考えるのは「四脚門」の意味である。
すなわち動物を意味していることは明らかである。
「四脚門」をくぐるとは、人間界と神の世界を行き来するときのゲートであり、
ここで大祝は動物と一体となり、自然界の力を身に着け、神の力を得ることを意味している。
めでたく、水の精霊の力を得た大祝は、「天流水舎」に戻り、人間界に水の恵みをもたらすのである。
ここで、「先住民モリヤ」と「征服者イズモ」の物語を思い出すと、
「天流水舎」が必要なのは「稲作民イズモ」であり、
「狩猟民モリヤ」の自然崇拝の力を「四脚門」をくぐることで借り「硯石」に到達できたと考えよう。
大祝となったのは征服者イズモであり、大祝を導く神長官守矢はその字の通り先住民モリヤなのだ。
これがベレー帽流の上社本宮の謎解きである。
まさしく縄文の古層の露頭を発見してしまった。
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さて、一般人として拝殿に向かおう。
幣拝殿と片拝殿のみで本殿を持たない、諏訪造りという独持の様式だそうだ。
では、本殿がないのに、何を拝したのだろうか。
諏訪にイズモが侵入するまでは、先住民モリヤは「ミシャグチ神」を拝し、
自然のあらゆるところに神が存在したので、神殿に神がいるという概念がなかったのだ。
すなわち拝殿はあるのだが、実はその先には、モリヤの神々がいる「守屋山」があるのだ。
あるいは、諏訪のイキガミである大祝の屋敷「神原」のある「上社前宮」に向かっていることになる。
なんと、先住民モリヤはイズモに征服されたように見せかけて、
実は信仰的、政治的に実権を握るような神社の位置関係を巧妙に作ったのだと考えられるのだ。
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