山頂に作られた前方後円墳「森将軍塚古墳」に登る
和田峠を越えて千曲川流域に入る。
ここらはスキーで何度も通ったところである。
縄文が終わり稲作文化の時代となって、千曲川流域にも多くのクニが作られた。
その証として地図を見ていると、千曲川が大きく曲がる篠ノ井あたりの尾根に
「〇〇将軍塚」と名付けられた多くの古墳がある。
古墳を「〇〇将軍塚」と呼ぶのはあまり他ではないと思う。
その一つ「森将軍塚古墳」が整備され、専用バスで登れるというので立ち寄ることにした。
長野県立博物館と並んで千曲市森将軍塚古墳館があり、ここから登山バスが出ている。

古墳館から古墳を見上げるとこんな感じ。近いように見えるが山道を歩いて、30分程かかるみたいなのでバスに乗る。

山道を10分程バスに乗って、駐車場についてさらに少し歩くと、目の前に古墳の全体が飛び込んでくる。圧巻。
延長100m、幅30~45m。築造は4C後半でシナノで最も古い前方後円墳。

標高500m。博物館のところで標高350mだから丘というより山頂である。

このように、かなりの急傾斜の山の尾根上に前方後円墳が築かれている。

測量平面図を見ると、狭い尾根上に作ったのでかなりいびつな前方後円墳になっている。
急傾斜に対応するため、盛土の安定のため、升目の石垣を作りその中に盛土をしている。
いわゆる「枠組み工法」という現代でも通用する、かなり高度な土木技術だ。

しかし、よくもまあ、こんな山頂に多くの石を運び上げ築造したものだ。
労力は推定5万5千人日という。

頂部からの眺望は素晴らしい。千曲川沿岸と長野盆地が一望できる。
この古墳の主の領地というわけだ。

さらに遠方に目をやると、飯綱山、戸隠山、雪の積もった北アルプス連峰まで見えるではないか。

さて古墳といえばクニの王、大王の墓であるが「将軍」とは何だろう。
日本で将軍といえば「征夷大将軍」であるが、当然時代区分が違う。
おそらく、このシナノのクニはいくつかの勢力が乱立し戦い、
クニの王は「武人」である時代が長かったのだろう。
だから後世の人は「将軍」と呼んだのではないだろうか。
そう思いながら、古墳を眺め、下山したのだった。

ここらはスキーで何度も通ったところである。
縄文が終わり稲作文化の時代となって、千曲川流域にも多くのクニが作られた。
その証として地図を見ていると、千曲川が大きく曲がる篠ノ井あたりの尾根に
「〇〇将軍塚」と名付けられた多くの古墳がある。
古墳を「〇〇将軍塚」と呼ぶのはあまり他ではないと思う。
その一つ「森将軍塚古墳」が整備され、専用バスで登れるというので立ち寄ることにした。
長野県立博物館と並んで千曲市森将軍塚古墳館があり、ここから登山バスが出ている。
古墳館から古墳を見上げるとこんな感じ。近いように見えるが山道を歩いて、30分程かかるみたいなのでバスに乗る。
山道を10分程バスに乗って、駐車場についてさらに少し歩くと、目の前に古墳の全体が飛び込んでくる。圧巻。
延長100m、幅30~45m。築造は4C後半でシナノで最も古い前方後円墳。
標高500m。博物館のところで標高350mだから丘というより山頂である。
このように、かなりの急傾斜の山の尾根上に前方後円墳が築かれている。
測量平面図を見ると、狭い尾根上に作ったのでかなりいびつな前方後円墳になっている。
急傾斜に対応するため、盛土の安定のため、升目の石垣を作りその中に盛土をしている。
いわゆる「枠組み工法」という現代でも通用する、かなり高度な土木技術だ。
しかし、よくもまあ、こんな山頂に多くの石を運び上げ築造したものだ。
労力は推定5万5千人日という。
頂部からの眺望は素晴らしい。千曲川沿岸と長野盆地が一望できる。
この古墳の主の領地というわけだ。
さらに遠方に目をやると、飯綱山、戸隠山、雪の積もった北アルプス連峰まで見えるではないか。
さて古墳といえばクニの王、大王の墓であるが「将軍」とは何だろう。
日本で将軍といえば「征夷大将軍」であるが、当然時代区分が違う。
おそらく、このシナノのクニはいくつかの勢力が乱立し戦い、
クニの王は「武人」である時代が長かったのだろう。
だから後世の人は「将軍」と呼んだのではないだろうか。
そう思いながら、古墳を眺め、下山したのだった。
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